第24回 鷹匠〔たかじょう〕に会いに行く
2015年4月
10日
ぽっかり予定の空いた日は『八珍』までラーメンを食べに行く。狩猟期間中は鴨がいる・いない、どこでどのように猟をした、という話中心になりがち。家族のこと、仕事のこと、趣味のこと。鳥撃ちの師匠であり大先輩でもあるけれど、友だちのような感覚で雑談できるのが猟期外のいいところだ。
「知り合いに鷹匠がいるんだけど会ってみる?」
去年の秋、どういう話の流れだったか、思い出したように宮澤さんが言った。このあたりで鷹を使った猟をしているのは一人だけだろうと。
「連れて行ってもらったことがあるんですけど見事なものですよ。石坂修一さんという方で、鷹狩は一年中できるのに、猟師に気を使ってか狩猟期間限定で猟をしているんです。北尾さん、興味あるんじゃない?」
◇ ◇
その石坂さんにようやくお目にかかることができた。いただいた名刺の肩書は、"諏訪流 鷹匠"となっている。鷹匠には大きく分けると吉田流、諏訪流の二派があり、鷹の訓練法、鷹狩の技が異なるという。諏訪流は諏訪大社の贄鷹(にえたか/鷹で捕らえた獲物を神前に供える神事)と関係が深く、信州にルーツを持つ。
「北尾さんはUAE(アラブ首長国連邦)で鷹狩を見られたそうですね」
宮澤さんから情報が伝わっているようだ。そう、ぼくは10年ほど前、雑誌の企画でUAEへ行き、王族の鷹狩を取材したことがある。向こうでは鷹ではなくハヤブサを使って猟をし、ぼくはそのトレーニングに同行。アラブ諸国ではヒゲのない男は一人前と見なされないため、無精ヒゲを伸ばし、ターバンに白装束の正装で臨んだものだ。富豪らしく、このハヤブサは2千万円するのだとか、本番の狩りはアフリカまで行ってやるのだとお付きの人が自慢していた。
鷹狩発祥の地とされるモンゴルではイヌワシを使ったりもするが、日本では猛禽類を使った狩猟法の総称を鷹狩、飼育や狩りをさせる人を鷹匠と呼ぶ。石坂さんが飼っているのはオオタカで、東北地方ではクマタカを使って狩りをする。ぼくは勝手に、鷹狩の本場は東北だと思い込んでいたが、それは違うという。
「江戸です。日本の鷹狩は仁徳天皇の時代に始まったとされ、1600年ほどの歴史があります。技術的な完成の域に達したのが江戸時代。幕府お抱えの鷹匠集団がいたほどです」
獲物を獲るためだけに猛禽類を育てたり調教するのは、きわめて贅沢な趣味。貴族や位の高い武士でもなければ無理である。明治時代までは宮内省が技術を保護して残したが、いまは天皇家に仕える鷹匠はいない。東北地方に広かったのは、明治以降、鷹匠の技術が伝わったためだろう。それまで、鷹匠はその道のプロとして世襲されるのが一般的だった。
石坂さんに基礎知識を教わっていると、奥の部屋から甲高い鳥の鳴き声が聞こえてきた。鷹は神経質かつパワフル。金網の鳥小屋では飼育ができず、がっちりした木造の小屋で飼われているが、中の様子が見にくいのでカメラを設置し、モニターで観察できるようになっているのだ。
「いまは繁殖期で、とくに神経質になっているんです」
画面にはオスのオオタカが映っていた。見えないところにメスがいて、ときどきオスが飛びかかる。妊娠期間は33日から35日。いまは4月初旬なので、順調にいけば5月にはヒナが生まれる計算か...、あ、飛んだ!
オスの姿がモニターから消え、メスの鳴き声が聞こえてきた。一日に何度もこれを繰り返すのだという。その間、石坂さんは気が気じゃない。無事に生まれたらヒナの生育を見守っていかねばならないし、じきに訓練も始まるからだ。
鷹狩は廃れてしまったものの、そのおもしろさに魅入られた人たちの手によって、かろうじて技術が継承されており、石坂さんもその一人だ。本業は会社員で、忙しい時間をやりくりして、早朝や夜を訓練の時間に充てるのが日課。。
生き物を飼うには覚悟がいる。旅行だからと鷹をペットショップに預けるわけにいかないもんなあ。初めて飼ったのは20代半ば。以後34年、途切れることなく15羽ほどの鷹を使ってきた。
全国に同好の士がいてネットワークもあるけれど、近所に趣味の話ができる人は皆無。どう思われているかというと、道楽者だったり変わり者だったりする。それでも、やめようと思ったことは一度もない。鷹狩は石坂さんのライフワークだ。